前出の「大師河原の酒合戦」が飲みつぶしの戦いなら、誰が一番多く飲むか、
いわゆる大酒飲みコンテストのようなものも行われていた。
有名なのが、文化12年(1815年)10月の「千住の酒合戦」。ここで使われた杯は小さいものは5合入の
「厳島杯」や7合入の「鎌倉杯」、大きなのもでは、2升5合入りの「緑毛亀杯」、最大の「丹頂鶴杯」は3升も入った。
名前こそ優雅だがとんでもない杯だ。
我こそは、と名乗りをあげた参加者100名余りの中で、優勝したのは野洲小山の佐兵衛さん。
録毛杯を3杯を飲んだというから7升5合空けたことになる。
しかし、準優勝の会津の浪人、河田某はもっとすごい。旅の途中でこの合戦の話を聞きつけて飛び入り参加。
6升2合をあっさり片付け、さらに丹頂鶴杯へ手をかけようとしたものの、「旅の途中でもあり、急ぎの用がある。御免」
といって立ち去ったという。粋なヤツだったらしい。
4升5合で第3位になった日本橋馬喰町の大坂屋長兵衛さんも剛の者。
なんと翌朝の迎え酒に1升5合を飲んでケロッとしていたという。
また、「高齢の部」では62歳の玄慶さんが3升5合、「女性部門」では千住のおすみさんが2升5合を空にした。
驚くのはまだ早い。2年後の文化14年、両国に場を移して行われた大会では、
鯉屋利兵衛なる男(30歳)が1斗8升を飲んで優勝している。
しかも、誰一人として礼を乱したり、吐いたりせず、きちんと礼をして帰ったことまで記録されているのも驚嘆に値する。
アルコール度数なども不明だし、この数字をそのまま鵜呑みにはできないものの、
なんとも豪快でおおらかな酒くらべが行われるうらやましい時代があったことに間違いはない。
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