歴史 東南アジア、特にタイ国から沖縄に伝わったというのが定説です。
沖縄から奄美大島諸島(当時の琉球王朝の領内)を経て鹿児島に上陸し
さらに北上して宮崎方面、球磨方面へと伝播したといわれています。
タイ国の焼酎醸造場のラオ・ロンと称する米焼酎の風味が沖縄の泡盛に酷似していたこと、
その醸造に使用されるカメや蒸留器なども泡盛のそれと実によく似ていた。
東南アジアでもわが国で使用されていた型の蒸留器の原型がみられた。
これらから、東南アジア、特にタイからの伝来が裏づけられます。
伝来時期
古文献の伝えるところによると15世紀中頃から沖縄に定着したものと推定されます。
それから約半世紀の歳月を経た16世紀初めに鹿児島に上陸以後宮崎南部、人吉(球磨)地方へ16世紀に、
また宮崎県北部(当時の日向)へ17世紀中頃に伝播されたといわれています。
甘藷焼酎
甘藷(別名:蕃藷、唐芋、薩摩芋)が中国南部から沖縄を経て
鹿児島へ渡ったのは17世紀に入ってからですから、
甘藷焼酎が造られるようになったのは17世紀中頃以後でしょう。
従って南九州に焼酎が上陸した当時の原料は
米、ひえ、あわ、きびなどの穀類であったと考えられます。
壱岐島の麦焼酎
麦焼酎で有名な壱岐で焼酎が造られ初めたのは、
江戸時代末期(19世紀初め頃)であろうとされています。
壱岐は米作の豊かな島で、元来は清酒が造られていましたが、
幕府の参勤交替制が敷かれてから藩の財政が逼迫し、米の供出が厳しくなったため、
清酒の不足分を麦焼酎でまかなうようになり、
現在では麦焼酎が島の主産品となっています。
伊豆諸島の甘藷焼酎
伊豆諸島は甘藷焼酎の産地ですが、江戸時代末期(19世紀中頃)に
鹿児島は阿久根出身の貿易商、丹宗庄右衛門(にそうしょうえもん)氏が
八丈島で救荒作物として甘藷の栽培を普及させ、
さらに故郷の鹿児島から焼酎の製造設備一式を取り寄せて
甘藷焼酎の製造法を島民に伝授したのが始まりです。
粕取り焼酎
粕取り焼酎も九州の清酒どころである福岡あたりで、17世紀頃から造られていたようです。
当時、清酒は庶民には関係ない酒で、稲作に欠かせない諸行事の祝い酒として
粕取り焼酎が農民にとって重要な役割を果たしていました。
従って、粕取り焼酎を別名”早苗饗(さなぶり)焼酎”ともいい、
また九州では晩酌のことを”ダリヤミ”(疲れをいやす意)
という方言が広く使われています。
焼酎甲類へ
|